
少し前になりますが、私(学園長出谷)が京都大学に通っていた頃、研究室でご指導いただいていた中西和樹先生がご退官されることとなり、退官記念の最終講義に出席してきました。 今回は、その時のお話を書いてみたいと思います。

最終講義は、先生に縁のある卒業生や同僚の方が出席して、先生がこれまでにされてきた研究の成果を思い出と共にお話されるという場でした。
先生が長年されてきた研究においては、液体の原料を混ぜ合わせて、これらが反応して固まる過程で構造の変化を起こし、特殊な構造を得るという工程が重要になります。
原料や狙う構造を変えながら実験を行うのですが、うまくいかないと固まらないということが良くあります(逆に、固まりすぎてもダメだったりするのですが・・・)。
「固めてやるぞ」と意気込むほど、うまくいかなかった時の落胆も大きくなる。だからこそ、「固まるかどうかはサンプル次第」くらいの気持ちで向き合うのがちょうど良い。
長年研究を続ける中で、そのように感じられるようになったとのことでした。
英語にすると「Be Patient until it Solidifies」で、solidify(固まる)という動詞を他動詞ではなく自動詞として使っているのがミソだ、とも仰っていました。
未知の領域を切り拓いていく研究においては、上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。そこで一喜一憂していてはいけないのだということ。また、「自分がこうしたい」と一方的に考えるのではなく、相手が自発的に変化していくことを待つ姿勢も大切なのだ、ということも含まれていたのかなと、私は解釈しました。
人事を尽くして天命を待つ、という言葉もありますが、自分自身の普段の生活や仕事においても大変勉強になるお話でした。
それと同時に、中高生に勉強を教えるという中でも、似たようなことが言えるのかなという思いも抱きました。個別指導という指導形態上、なかなか自分では机に向かえないという生徒さんもよくいらっしゃいます。そのような生徒さんに勉強を「させる」のが我々の仕事です。しかし、生徒が「勉強をやらされている」という思いを持つと、あまり良い方向には向かわないことが多いです。何故なら、「やらされている」と感じると、「言われたから仕方なくやる」という状態になりやすく、言われたこと以外のことを一切しなくなったり、また、嫌々やるせいで学習の効果が薄くなってしまったりということがあるからです。
もちろん、今まで勉強の習慣がなかった生徒さんに対しては、(少なくとも初期には)ある程度の強制力をもって「させる」必要が出てきます。ただ、その時に「これとこれとこれをやりなさい!」と文字通り命令形で指示をすると、「やらされている」状態になってしまいます。勉強を「させる」状態ではありながらも、出来る限り本人には自発的に「している」という感覚を持ってもらえるかということは、指導するうえで非常に重要なことであると感じています。
自分で進んで取り組めるようになると、一つひとつの作業が丁寧になります。また、「何のためにこの勉強をしているのか」を意識して取り組めるため、定着の仕方も大きく変わってきます。
私の学生時代を思い返しても、中西先生は、私たち学生に何かを強制することはありませんでした。私たちを導きつつも、自発的に動くのを待ってくださっていたように思います。生徒に勉強を「させる」(他動詞)のではなく、生徒自身が勉強を「する」(自動詞)状態をどう作るか。起きている現象は同じ「勉強している」でも、その違いは非常に大きいのだと改めて感じました。
無理やり机に向かわせて勉強をさせることは、短期的には、たとえば明日の試験には効果があるかもしれません。しかし長い目で見ると、勉強そのものへの抵抗感につながってしまうことも少なくありません。
どうすれば、生徒自身が「やろう」と思える状態を作れるのか。
どうすれば、自発的に机に向かえるようになるのか。
それこそが、個別指導塾の腕の見せ所なのだと思います。
私自身も、「自動詞」で学べる環境を大切にしながら、これからも指導を続けていきたいと思います。